灯の伊藤孝雄です。題名である『明日に向かって一日断酒』は約27~8年前に三重断酒新生会で記念誌を出す事になり、その時の題名と同じです。
気持ちは今も同じです。違うのは心情と私を取り巻く環境ですが、私は最初の一杯で止まらないアルコール依存症者です。
自分でお酒を切る事が、出来ない男です。
精神病院の保護室でしかお酒を切れない、情けない男です。
私は若い時から多量飲酒で、自分では気付いてないけど、家族の間では心配していたみたいです。
私が33才の時、親父が胃癌で亡くなる時に私の姉が「親父に酒を辞める。」と言ってやって、と促されましたが、私は、嘘は言えないと拒んでいました。
親父の葬式が終わった後、お酒が原因で初めて入院しました。昭和61年2月に高茶屋(現在こころの医療センター)に入院するまで毎年のように総合病院に入院していました。
酒量も増え朝酒をする様になってしまいました。
朝酒をする以前は、家にはいつもお酒を切らす事なく恭子(妻)が買い足しをしてくれていましたが、入院する様になってからは酒を家に置かない様になってしまいました。
酒は朝から日中は缶チユーハイで夜は日本酒です。缶チユーハイは匂いがしないと思ってました。
朝からお酒を飲んで会社に行くのですから問題になってましたが止められないです。
今みたいにコンビニも少なく、お酒が買えるお店は夜は閉まっており、自販機が朝の5時に動くのを待って買っておりました。(当時、自販機は23時~5時まで購入出来ませんでした。)
夜中にどうしても飲みたいのでお墓に供えて有るワンカップまで飲みました。
本当に情けない男です。
昭和61年2月に前厄で同級生と厄払いで酒を飲んで、それが原因で連続飲酒になってしまいました。
母親が心配して……高茶屋病院にお酒を辞めさす先生がいると調べて知り、2月28日に猪野先生の診察を受け即入院しました。
まさか、それから3年3ケ月の間に十数回の入退院を繰り返すとは夢にも思いませんでした。
自分でアル中やな~とは昭和58~9年頃から思っていましたので、これを期に辞めるつもりでしたが、根が末子の甘えん坊さんですので、
恭子が何かするとそれが原因と言っては飲んでしまいました、本当にバカな男ですよ!!
昭和61年 、年末入院した時(3回目?)、年が明けたすぐ位に保護室から出て猪野先生に相談せず20年間勤めた会社に電話して退職してしまいました。
(後で猪野先生に怒られましたがその意味あいが、解ったのは本当に断酒してから再就職の時でした。)
一時はあまり簡単に飲むので断酒する気が、無いと思われて猪野先生、大越先生、下川看護長、連名の書類をもらいました。
内容は入院治療はしないでした。
それでも、最後は猪野先生が入院させてくれました。始めの頃は6病棟の保護室でしたが、大概2病棟(精神病の人が、入院している閉鎖病棟)で1ケ月位いて6病棟に移るけど…
最後の入院となっている昭和63年11月の時は猪野先生の厳しい治療でした。まるで籠の鳥です。普通はなんぼ閉鎖病棟の人でも、たまには、病棟の外に出て散歩位出来るが、その時は全部禁止でした。
当時は精神の人からもバカにされ私が入院する度々に『また、飲んだんか?本当にアホやな~』
看護士からは『精神の人は可哀相や、なりたて、なったんと違う、アルコールの人は解って飲むのでたちが悪い』と言われました。
6病棟の看護士には私が退院する時に『孝雄さん荷物詰所で預かったろか?どっちみちまた来るで』
そんな情けない私ですが、……
昭和63年12月上旬2病棟の窓から外を見ていると精神の若い女性が看護士と散歩してました。
その時思いました。『あぁ、なんやあんな精神の子でも散歩できるのに・・・自分はなんや、人にバカにされ、自由なんかない、何でや、たった一杯の酒で』
精神病院にいても1日、娑婆にいても1日、同じ1日なら娑婆にいた方が徳や、本当に打算的ですが、気づきました。
そうや、最初の一杯を飲むから二杯、三杯になり、連続飲酒になって入院する。この3年間それの繰り返しや・・・。そう気付きました。
平成元年6月退院してから現在まで猪野先生が最初の退院の時に寄せ書きに書いてくださった『勇気を持って、最初の一杯に手を出すな』を守ってます。
退院以来32年間、生活は断酒会中心です。特に始めの15年間は1ケ月10回の例会通いをしました。
(桑名、四日市、鈴鹿、各2回 本部4回)それだけすればさすがの私でも断酒出来ました(苦笑)。
抗酒剤のノックビンも7年間飲みましたが、自分で飲むので忘れる時もありますので余って来るので7年で辞めました。
(もう当時は恭子は飲むのも、飲まないも知らない、自分で決めてでした。恭子は離婚したかったけど、母親が反対するので出来ないと言ってました。)
恵まれていたのは断酒始めた頃はバブル末期で人手が無い時代で再就職出来ました。
面接の時になぜ20年間も勤めた会社辞めたか?聴かれましたので素直に酒ですと言ったところ断酒する事を条件に採用してくれました。
その会社に60才の定年まで勤めました、その間会社の慰安旅行には始めの5年間は参加しませんでした。(飲む場所を避ける為)定年後は息子がやっている電気工事会社で今も働いてます。
その間、世の中何が起きるか?解りませんね!
断酒10年目位の時に人生の新しいパートナーとなる恵子と巡り合い結婚しました!
もう20年になります。
高茶屋に入院する時は肝硬変と言うわれましたが今でもエコーやMRIの検査では残骸は有るそうですが、血液検査では解らない位良くなってます。
今年、後期高齢者の仲間入りしますが、生涯現役、生涯断酒のつもりで頑張って仕事します!
最後に今こうして生きているのは猪野先生の出会いが、あったからと思ってます。
残された人生知れてますが、人との出会いを大切にしたいと思ってます!
ありがとうございました!
2020年05月1日更新